イスラーム神秘主義~存在と本質へ
スーフィー スーフィズム
スーフィー教団、イスラーム神秘主義というと何を思い浮かべるだろうか。
畑違いの知り合いに聞いてみたことがあったが、怪しい感じがする、というのが答えだった。
たしかに、イスラーム×神秘主義×ターリカ(教団)と3つも組み合わさると、なにか反社会的な勢力で暗いオカルト集団のような、マイナスのイメージが湧いてくるのかもしれない。
逆にこのブログの読者のような変わった人(失礼!)なら、トルコの旋回舞踏を思い浮かべるかもしれない。
白いスカートのような布をまとって、長時間、流麗に回り続ける印象的なスーフィーの瞑想の行、ジクルのことだ。
あるいは、その旋回舞踏の創始者ルーミーかもしれない。「愛の詩人」と呼ばれているイスラーム神秘詩の偉大な詩人だ。
ワールドミュージック好きの人は、スーフィーと聞けば、最初にヌスラト・ファテー・アリー・ハーンの名を上げるだろう。パキスタン出身で、カッワーリーというスーフィーの儀礼音楽を熱唱する世界的なミュージシャンだ。
スーフィズムの多様性
しかしスーフィーって一体なんだ。やはりどこか謎めいている。
それはスーフィズムがあまりに多様で、しかも諸説あるからだと思う。イスラーム教の拡大とともに、西はスペイン、エジプト、東はインド、中国、インドネシアにまで拡がっているし、時代とともにさまざまな宗教や、哲学と融合している。
師弟関係がなければ参入できない秘教的な教団がある一方、19世紀ころには政府を支えるほど巨大化し大衆化した教団もあらわれた。たとえばチシュティー教団などはインドの北半分を支配していたこともある。スーフィズムはぼくたちにさまざまな顔を見せる。
スーフィーの登場
そもそもスーフィズム、イスラーム神秘主義というのは、どのように歴史上に登場したのだろうか。
イスラーム教は6世紀にアラビアで誕生すると、またたく間にアラビアから拡がった。それとともにイスラーム世界は物質的にも繁栄していく。
しかしその富を享受することをよしとしない、祈りと清貧をもとめる敬虔な人々もいた。それが後にスーフィーと呼ばれる人たちだ。
初期のスーフィーは禁欲主義だった。 かれらはコーランの奥にある意味を読みとり、瞑想し、神の名を朗誦し、つねに神を想起する敬虔な暮らしをしていた。
スーフィズムは、来るべき最後の審判を怖れ、救済されるためにひたすら苦行し神に仕える信仰だった。
そうした救済のための禁欲主義だったスーフィズムは、神秘主義へと変化していく。怖れの救済から魂の浄化のためへと、修行の手段と目的が変化したのだ。
その変化の理由のひとつとして、スーフィーたちはシリアのキリスト教神秘主義と接触したことでその修法を取り入れていったからといわれている。仏教やインド思想との接触の可能性も考えられるが、それはもっと後の時代だと思う。
体系化されたイスラーム神秘主義
隆盛を極めた当時のイスラーム世界は、学問のレベルも最高度になっていた。
8世紀からのアッパース朝の500年間、イスラーム帝国は国家事業として他国の文化を吸収し、ギリシャやインドなどさまざまな地域から学者を招く。「知恵の館」という巨大な図書館もつくっていた。科学、医学、天文学、数学などが発展し、グノーシス主義、ギリシャの新プラトン主義、ヘルメス主義、ペルシャのゾロアスター教、インド思想なども研究されていた。
こうした時代を背景のなか、スーフィズムはそれまで通りの伝統的な修行を続ける教団も多かったが、いっぽうで哲学や他の宗教との統合を試みる思想的なスーフィズムもあらわれた。
なかでもスーフィズムを本格的に思想体系にしたのは、12世紀のヤフヤー・スフラワルディー、イブン・アラビー、そして17世紀に入ってこの二人に続いたモッサー・サドラーだ。
3人の偉大なスーフィー
先ほど書いたようにイスラームではさまざまな学問や宗教が研究されてはいたが、イスラーム教への思想的な導入や融合を試みていたわけではなかった。
先のヤフヤー・スフラワルディーというスーフィーが初めて、イスラーム神秘主義と哲学という、いっけん相容れないものを統合して一体化させたのだ。かれはイスラームで最高のスコラ哲学者であり、また深い瞑想による神秘体験をした実践者でもあった。かれの「照明学」は、神と存在の関係を説く新プラトン主義で理論化し、ゾロアスター教の表象をもちいて体系化した哲学思想だった。
スフラワルディと同時代で、かれより10歳若いイブン・アラビーは、プラトンのイデア論を展開し、グノーシス主義を極めたような、「存在一性論」という精緻な形而上学的哲学を打ち立てた。この二人の思想によってイスラーム哲学は大きく発展し、伝承されていく。
17世紀に入ってモッラー・サドラーが登場し、イブン・アラビーの「存在一性論」を発展させた。さらにかれは、イブン・アラビーとスフラワルディという2人の巨人の思想を合一させる。「存在の本源的実在性」というかれの神秘哲学は、現在でもイスラーム哲学の基礎になっている。
アッラーとは存在、本質のこと
こうして体系化さていったイスラーム神秘主義だが、 かれらの哲学は、けっしてイスラーム教徒のためだけの哲学ではない。
コーランに「神はアッラーのみ」とあるが、3人の哲学はこの「神」を存在、本質に置き換えた存在論、本質論なのだ。
「想起すること 思い出すこと 私のことを思い出しなさい」(コーランの2章147節)
ここで私とは神(アッラー)のこと。私=存在または本質だ。そう考えると、かれらほど身を投じて、真摯に存在や本質について深め、「一つなるものと多なるもの」を思索した人はいないように思える。かれらはどこまでもそれを極めていった巨人たちだった。
グルジェフワークとスーフィズム
19世紀にグルジェフという思想家がいて、かれはグルジェフワークというを独特のワークを行っていた。直系のグループに参加するにはイニシエーションを受けて入るようなかたちだが、現在でも世界中にコミュニティがある。
ぼくもそこでいくらか学んでいたことがあるが、そこでのワークにはスーフィー由来と思われる瞑想法やジクル(修行法)がいくつもあった。グルジェフが特別な意味を込めて「想起する」ということばを使うが、これもイスラームの教えにある。
ぼくが以前、頻繁におこなっていた「ダブルアテンション」というワークショップもここから着想を得たものだ。
すべての事象は関係性
モッラー・サドラーは、究極的に、世界に存在するすべての事象を「関係性だけ」という。
この「関係性」というのは、アウェアネスアート研究所の大きなテーマのひとつだ。
ホームページの上の画像に「浮世と浮世離れのインターフェイス」とあるが、これも「すべては関係性」というメッセージ。「関係性」については折にふれて書いていこうと思う。
アウェアネスアート®研究所 主宰 新海正彦
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