かなしみのその奥に
奪われた本来の力
「千と千尋の神隠し」というアニメでぼくの好きなシーンがある。
ドラマの終盤で、ハクという少年が自分の名前を想い出すところだ。
「ありがとう千尋。私の本当の名は、ニギハヤミ コハクヌシだ」
ハクはもともと琥珀川であり、ニギハヤミ コハクヌシという名前だった。
しかし、かれは本来の名前や本来の姿、本当の力をすっかり忘れていた。
湯婆婆というばあさんの呪詛のような力によって奪われていたのだ。
それを主人公の少女、千尋のおかげで想い出すことができた、そんなシーンだ。
ぼくはこの、「本来の力が奪われた」という心象から、一つの言葉を想い出す。
「かなしみ」だ。 「かなしみ」という言葉も、かつては深く奥行きのある言葉だったはずだが、いつのまにか多くの意味を失い、忘れてしまった。
いつも使っている「悲しい」
僕たちは「悲しい」「哀しい」という言葉をどんなときにつかうだろうか。
フロイト派の精神分析では、端的に「対象喪失」といっている。
大切にしていた人やペットとの離別や死別、あるいは大切にしていた物や環境との離別による喪失感だ。
「悲しみ」のことをこんなかたちで簡単にまとめてしまうと、大事な何かがこぼれ落ちてしまいそうだが、まあこういうことだと思う。
本来の「かなしい」
しかし民俗学、歴史学の研究者の柳田國男は、
「かなし、かなしむ」は必ずしも悲や哀のような刺激には限らなかったという。
元は、身に沁み透るような強い感覚が「かなしい」であり、今のように、その中から悲哀の意味だけを取りわけて、標準語の内容としたのは中世以降のこと。
元々あったさまざまな意味あいがなくなり、本来「かなしい」が持っていた奥行きを失ってしまったというのだ。
「かなしい」という言葉の成り立ちを知ると、たしかに多くの意味があったのだろうと理解できる。
語源は「かぬ(兼ぬ)」という動詞らしい。自分とは別の存在にたいして、自分と「兼ねて」しまいたい、併せてしまいたいという気持ち。しかし現実には兼ねられない、つまり「し兼ねる」。そんな切なく強い気持ちが「かなし」の語源だという。
「兼ねし」が語源ならば、 「愛し」と書いて「かなし」と読み、切ないほど自分と兼ねてしまいたいという気持ちを表していることもわかる。今の悲しい、哀しいという意味あいよりもかなり幅広い。
もうひとつ、これは重要だと思うのだがこんな「かなし」がある。大伴家持の絶唱三首の一つだ。
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも 一人し思えば
この歌は哲学的でもあるし、アニミズムのような自然観も感じられる。
古語辞典にも、「かなし」は自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語、とある。
かなしみの奥へ
どうだろうか。わたしたちにも、たとえば春の桜を眺めているとき、こんな気持ちが沸き起こることはないだろうか。
巡ってくる四季のなかでこの一時だけ、あでやかに咲きほこりそして散っていく。
次はまた来年のこの季節かと思うとき、ふと、「あと何度この桜を見られるのだろう」と自分は有限であることに思い至り、それと同時に、繰り返しの自然のリズムの永遠性に憧憬と畏怖の念に思いをはせる。
「かなしみ」という感情と言葉には、仏教の無常観、もののあわれ論、センチメンタリズムなど、切り口よってさまざまなニュアンスがあるので、よく見澄ます必要がある思う。
しかしこれらのなかにも、より大きな存在、自然、あるいは神、神々などへの憧憬と畏怖の念が底流にあることは、容易に読み取れるはずだ。
イスラーム詩
スーフィズムのルーミーのイスラーム詩にはこんなの一節がある。
きけ たおやかなる この葦笛の語ることばを
葦笛は しめやかに 別れの愁いを語る
根を切られ 故郷の川辺に別れを告げて以来
すすり泣く わたしの音色に
なぜいきなりイスラーム詩なのかと思われるかもしれないが、「かなしみ」の奥にある情感は、やまとことばだけの特徴ではないと思うからだ。
この神秘詩は、唯一の存在から切り離されてしまった人間の苦しみを、地面から引き抜かれた葦でできた笛(ネイ)に重ね合わせている詩だ。
「し兼ねる」想いがここにも表現されている。人として深く、自然や存在、本質について想うならば、まったく同じとはいわないが、同じような「かなしみ」、寂寥を感じる世界観があるように思える。
いつも何度でも
「千と千尋の神隠し」のエンディング曲「いつも何度でも」にこんな歌詞がある。
悲しみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたびひとは
ただ青い空の 青さを知る
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
こなごなに砕かれた鏡の上にも
新しい景色が 映される
作詞の意図はわからないが、「かなしみ」について書いた後、あらためて聴いていると、符合するなにかをこの歌詞に感じている。
ちなみに割れた鏡の表象はスーフィズムではよくでてくるテーマだ。
「かなしみ」の奥に存在するこうした畏怖と憧憬を感じとる感性は、今こそ大切にするべきものではないかと思っている。
アウェアネスアート®研究所 主宰 新海正彦